東日本大震災を経て変わった医療、看護について

今年で東日本大震災から四年が過ぎて行きました。

まだまだ復興が進んでいないことが多くまだ行方不明の方もいらっしゃる状態でまだ終わったという感じはありません。

また原子力災害もあり故郷に帰りたくても帰れない方も大勢いらっしゃいますね。

犠牲になられた方のご冥福をこころよりお祈り申し上げます。

発災の時

当日、私は夜勤明けで午後の二時半頃より入浴をしていました。

最初のうちは揺れが弱かったので大したことはないと感じていたのですが、だんだんと揺れが強くなり直感で「これはただ事ではない!」と強く感じ急いでお風呂から出ました。体をサッと拭いた程度で脱ぎ捨てた衣類をそのまま着てリビングにいる犬二匹と猫一匹を胸に抱きかかえ庭に避難しました。

庭にあった車がダンスをして、電信柱が強く揺れて家も今まで見たことがないほど揺れていました。私の家は関東の海なし県なので津波の心配はありませんでしたが、家族は皆外出中で家族の安否が大変心配になりまいたが携帯電話も家の固定電話もメールも使えず奈落の底に落とされた気分になりましたが皆無事に帰ってきました。

当時、都内の病院に勤務していたので病院の状態を知ろうと思い電話をしてみましたが、不通で通じませんでした。

三時間くらいしてからでしょうか?電話がやっと病院につながり大きな被害はなく通常の診療をしていて職員や入院患者も怪我をした人は誰もいなかったのでホッとしたのをよく覚えています。でも病院に参集の必要性があった場合交通機関が何時間も麻痺していたので参集したくても不可能だったと思います。

電気もしばらく停電したので他の様子がわかりませんでした。

大震災の様子を見て

テレビなどをみると東北地方や関東地方の一部が大被害を被ったことを知りました。大震災の翌日は日勤業務だったのですが交通機関も復旧し病院に震災後初めての勤務でしたが特に変わった様子は病院、その周辺はありませんでした。まるで何もなかった様子といったほうが早いくらいです。

しかしテレビを見るたびに大震災の様子ばかり放映していて何かできることはないか?看護師として力になれることはないか?と強く感じました。そんなことを考えているうちに一週間が過ぎ二週間、三週間と時間はあっという間に過ぎて行きました。

生活は住んでいる地域、勤務している病院の周辺は特に変わった様子はなく不便さも感じませんでした。

看護師として貢献できるチャンスが来た

そんな折に私が所属している医療団体から「東日本大震災で後方の医療支援を計画しているので可能な方は応募して欲しい」とメーリングリストより連絡が回ってきました。

その医療団体とは医師、看護師や地元の消防機関の職員から構成している団体です。

私は当時ICUに勤務していました。直属の師長に相談したところ「こちらは特に甚大な被害はない。病院もいつものように診療している。東北地方には支援に行っている人もたくさんいるしあなたが行かなくても誰かがやるからやらなくてもいいのではないか」と。

看護師として決意したこと

自分自身はその反対の意見を期待し「今こそ沢山の困っている方々の役に立とう!看護師として短期間の任務でも精一杯やってこよう!そのチャンスが来た!」と思っていました。当時勤務している病院は災害拠点病院ではなく今後同じことが起きても特に関わらないということがわかりました。

それからはこれから看護師人生をどのように生きていくか決めるのには時間はかかりませんでした。救急部門の仕事がしたかったのと災害時に積極的に関わっていく災害拠点病院への転職を決めました。恥ずかしい話ですが強く固い信念を持ったのは看護師になって初めてだったと思います。そして縁あって今の病院に転職ができてERに勤務することができました。

勤務した翌年に院内でDMAT(特別な訓練を受けた機動性のある災害時に派遣される医療チーム)を作るのでやってみないか?と所属長に言われ返事はもちろんYESです。

四日間の厳しい座学や実技、試験を突破し見事にDMATの隊員になることができました。あの時の悔しい思いは忘れません。いつか力を発揮する時が来たら被災された方々のために

全力を尽くしたいと思っています。

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