DMAT看護師としての活動体験 被災地で被災者に励まされながら

現在地球上のどこかで災害が発災したり紛争が絶え間なく残念ながらおこってしまっています。その場所ではたくさんの方々が傷つき亡くなってしまいます。命こそ助かったものの避難所などで家を追われて不便な生活を強いれれてしまい体調を崩したり精神的に病んでしまう方々も少なくありません。日本ではあらゆる災害に立ち向かうDMATがその任にあたります。海外での人道支援はどのようになっているのでしょうか?

国際緊急援助隊医療チームの話・看護師としての活動

今でこそ「災害がどこかで発生した!」と耳にすればDMATの隊員である私は気になって仕方ありません。

しかしDMATの隊員になる前は災害なんて日本国内で発生しても遠い外国で起きている出来事としかとらえることしかできませんでした。しかも災害に対してなんの知識もありませんでした。

ですが、DMATになる前のある日、身近な出来事として飛行機の墜落という災害が発災しました。そして、次から次へと事故で重傷を負った方々が運ばれてきました。その時はただ単に忙殺されて全く何がどうなっているのかわからず、悔しい気持ちと災害にも立ち向かうことができる自分を目指そうと災害看護に興味を持ち現在に至ります。

参考:看護師としての将来の目標を決めるきっかけについて【DMATを目指した理由】

国債緊急援助隊医療チームに登録

友達が青年海外協力隊の隊員だったということもあり、私も国際緊急援助隊医療チームにも登録をしました。

医療チームは医師、看護師、業務調整員という構成で20人くらいの構成です。派遣期間はおおむね2週間程度ですが、活動の内容は1日と同じ活動はありませんでした。

任務を遂行するためにはチームワーク、協調性がカギとなります。いくら優秀な医師、看護師、業務調整員でも一人では何もできません。チーム内はみな初対面です。出会って決められた期間は被災地で被災者のために活動しなければなりません。意思疎通を図り協力しあうためレベルの高い協調性が求められます。

また看護師としての知識や看護技術、だけではなく強い精神面も必要とされます。被災地は文字通り悲惨な場所でありショックを受けるような場面に遭遇することも多々あります。その度に心が傷つき折れてばかりいては勤めることができません。むしろ精神面での強さを求められる仕事と言っても過言ではありません。

密度の濃い経験から今後の看護師人生において大いに役にたちました。

2006年に発生したインドネシア大地震の救護のため現地へ

ご記憶にある方もいらっしゃると思いますが、2006年に発生したインドネシアの地震では怪我をしたつまり外傷による方々がたくさんいました。現地入りは道路などが寸断されてしまい、陸路は使えず空港からヘリコプターで現地入しました。インドネシア軍のヘリコプターだったのでパイロットの操縦も荒く、冗談抜きでこのまま墜落して自分が被災者になってしまうのではないかと思ったほどでした。

救護所はお世辞にも綺麗なところとは言えず衛生的ではありませんでした。ちょっとした手術もでき機能はそれなりにありました。

包帯から血がにじみ出ている人、痛さや苦しみでうめき声が響いていました。しかし、ここで臆していては活動ができません本部に到着の報告を済ませて活動開始です。先ほどもお伝えしたように怪我をしている方が多いので処置がとても多かったです。

津波による外傷が多く摩擦で一種の火傷のような怪我が多かったです。抗生剤の点滴、包帯やガーゼ交換、創部の消毒やガーゼ交換、その間でも次から次へと運ばれてくる被災者、けが人が数え切れないほどでした。チームは不眠不休で対応に追われどれだけの方々を救えたかはわかりません。任期である2週間は激動の日々であり時間は滝の流れのごとく経過していきました。

その活動を支えてくれたのは被災してしまった現地の方々でした。「来てくれてありがとう、あなた方にどのくらい救われたかわからないほどです。感謝しています。そして体には十分に気をつけてこれからもこのようなことが起きてしまったら我々の国だけではなく他の国でも同じように助けてほしい、頑張ってほしい。」と初老の男性に言われたのが心に染みつきいまだにその時の光景やその方を忘れることはできません。

今の私の看護師人生に大きな糧となっているのは言うまでもありません。